目には明かに見えねども

UP平成21年9月号(前田雅英)




2009年の立秋は8月7日であった。その前日の8月6日、はじめての裁判員裁判の判決が言渡された。裁判報道が重視されるようになってきているとは思っていたが、マスコミの連日の裁判員裁判の扱い方に、「凄いなあ」と思った。そして、ビデオや新聞記事を整理しなおしていて、「はっ」と気付いた。一種の驚きを覚えたのである。  朝刊・夕刊を問わず一面や社会面のかなりの部分を占めた新聞記事の量、イラストの多さが驚きの原因ではない。3日に裁判員を選ぶ段階から、NHKが詳細に中継したりしたことにもびっくりしたが、それもそれだけのことである。今回の一連の報道を冷静に振り返って強く意識させられたのは、報道全体から感じられた潮目の変化、つまり裁判員制度への国民の意識の変化が始まったということなのである。目には明かに見えないが、大きな歯車が間違いなく回転をはじめたという実感である。それは、「鋭く力強い」というのではなく「重くゆっくりした、しかしもはや止めることのできない」変化の予兆であった。
 2 吹き始めた風は止まらない
 現代日本では、ネットを使った調査が幅をきかせ、数字が踊る。世論調査のパーセンテージを繋ぎ合わせたキャスターのコメントが、あたかも真実であるかのような錯覚に陥ることがある。ただ、まだ「裁判員に対する国民の評価が変化した」という「客観的」データは存在しないし、説明も行われていない。  これまでマスコミで引用されてきたデータでは、「法的に認められた制度なので、参加はするが、積極的に裁判員になってみたいとは思わない」というものが最も多い。法務省や裁判所などによる多くの宣伝活動や、多数の模擬裁判の積み上げによっても、国民の消極的態度に変化はないように見えていた。「裁判員制度はいらない!大運動」の中心人物である高山俊吉弁護士らは、3日に弁護士会館で記者会見し、「国は、国民を納得させる制度導入の理由を一切説明していない」などとする声明文を読み上げた後、「罰則を受けてでも参加したくないという国民が大勢いるにもかかわらず、制度の実施を延期しないのはおかしい」と語ったことが報道されていた。当日地裁前では、「裁判員制度は間違いです」というビラ配りがなされ、当日の傍聴席でも「裁判員制度反対」を叫んだ人もいたようである。
 しかし、それでも裁判員制度は、間違いなく前に動き出したと感じる。全報道の基本にある批判的なトーンが弱まり、サポートする論調が強まった。裁判員裁判に消極的な政党もあるようだが、最早止めることはできないと思う。
 3 社会参加の実感
 このような動きをつくりだした最も大きな情報は、よく考えてみると、参加した裁判員の会見内容であったように思われる。非常に真摯な、ややもすれば訥々とした、その意味でワイドショーのコメンテーターとは正反対の説明は、視聴者に非常に強い印象を与えたように思う。少なくとも、新聞記者には大きな影響を与えたといえよう。  もちろん重要なのは発言内容であった。正解のない問題で、非常に大変であり、つらかったというような発言が見られた。しかし同時に、「やってよかった」というのである。「やってみたが、楽だったので、またやってみたい」というのではない。大変だったがやりがいがあったというのである。 私が最も注目したのは、ある裁判員の「他人事でなくなった」という言葉である。これまでは、刑事事件に関心がなかったわけではないが、あくまで専門家が解決すべきもので、他人事だったというのである。しかし、裁判員を務めてみて、犯罪にいたる状況を目の当たりにして、「社会というもの」に直面したことがよかったというのである。
6 裁判員裁判と刑法理論の発展
 裁判員制度は、裁判員の参加を可能とするために導入された「刑事手続きの改革」の評価抜きには語れない。裁判の短縮という意味ではメリットが多かったが、例えば、直接主義・口頭主義が重視される結果、「当事者のパフォーマンス能力で、有罪無罪が動いてよいのか」という問題が生じると指摘されている。たしかに、表現の仕方に精力を傾けすぎるのは問題であろう。また、事件の種類によっては、直接主義に一定の制約をかけなければならない場合も出てくるかも知れない。その意味で、常に修正を加えていく柔軟な心構えが必要なように思われる。
 今回は、裁判員にとって「裁判官や検察官、弁護士の説明はわかりやすかった」という形で、肯定的に評価されている。その前提として、法曹三者が大変な努力をしてきたことを認識しておく必要があるが、「わかりやすかった」ということが常にプラスのシンボルとなり得るとは限らないことにも注意しておく必要がある。「難しいことの方が有り難みがある」という類の議論は別にして、わかりやすくすることで真相が変形することは許されない。
ただ、「未必の故意という単語を使えばよかったのに」、というようなコメントは意味がない。検事が「ほぼ確実に死ぬ行為とわかって刺した」という言い回しを使ったが、それで、実質が変わったわけではないのである。むしろ、裁判員にわかる言葉で刑法の考え方を構成し直すことは、今後一層必要となるであろう。また、結論に影響しない、「議論のための議論」は、いかに理論的に興味深くとも、軽視されることになっていくであろう。
本誌に、法科大学院制度が法律学と法律実務との距離を必然的に狭めることになると書いたが(「法科大学院とアカデミズム」UP373号22頁)、裁判員制度の定着は、法律実務の判断と市民感覚の距離を狭めるだけでなく、法理論と「市民感覚の注入された実務」との距離をさらに一層狭めることになるように思う。もちろん、専門家としての法曹の存在があるから、裁判員が市民感覚を注入することが可能となるのであり、また、学説が実務と一体化することもあり得ない。しかし、それぞれが相手の存在を、より一層意識しなければならなくなり、より尊重していくことが要請されていくのである。









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